★Chanson
風 かおる 様
昨夕はありがとうございました。
6/22(日)読売新聞の記事「シャンソン 人生経験が共鳴」【7月の注目公演】を見て、帰宅着に調べて、お電話をした経緯でした。シャンソンは憧れのみで素人の小生です。高校時代にラジオで聴き入り、空白があり、映画《愛と哀しみのボレロ》1981年で、心惹かれました。
1997年11月、全国自治体病院協議会主催、西欧医療施設視察団に参加し、パリに連泊した際、同行者を誘い4人で Lapin Agile を体験しました。「好きで通っている」との日本人高齢男性が、「合わせて歌って良い」と。で、フランス語は分かりませんので、ラララでハーモニーを付け歌いました。歌手が交代する間に、ピアニストが(日本人5人を意識してか)[上を向いて歩こう]を演奏。で、「歌って良いですか?」と確認したら、彼は「おぉ、歌いたまえ!」と。で、ベートーヴェンの「第九」バスバリトンの声量で高らかに謳いました。彼「日本人で、こんなに朗々と歌ったのは君が初めてだ!」と。彼は「日野原重明を知ってるか?」「自分は聖路加国際病院の人間ドックの第1号だ」とも・・・。
《エディット・ピアフ 愛の讃歌》2007年や、NHK録画で くみこさんを知り、傾聴しました。
2012年10月12日、妻の願いでパリに連泊した際、還暦誕生日当日の夜にLapin Agile を再訪し、(事前メール送信し)、店長が覚えておられ、記念品をくださったのです。
鳥取市在住の身で、生のシャンソンには無縁の日々です。
楽しみに出かけます。よろしくお願いいたします。
2025/ 6/24


出典 ★1953年(昭和28年)春、日本人の海外渡航が自由化されていない時代に越路は初めてフランス・パリへ渡る。そこでシャンソン歌手のエディット・ピアフのステージを生で聴いた越路は大きな衝撃を受け、当時の日記には「エディット・ピアフを初めて聴く。オーケストラ、ジェスチャー、アレンジの素晴らしさに私は悲しい。ピアフを二度聴く。語ることなし。私は悲しい。夜、一人泣く。悲しい、寂しい、私には何もない。私は負けた。泣く、初めてのパリで。」と書き残されている。ピアフは越路の代表曲『愛の讃歌』のオリジナル歌手でもあり、生涯にわたって越路にとってシャンソン歌手としての大きな目標になった。越路の3か月のパリ生活を世話したのは、当時パリ滞在中の日本の文化人達だった。

出典 ★1971年(昭和46年)に越路は日生劇場のロングリサイタルの演目として、劇団四季と共に「ドラマチックリサイタル 愛の讃歌 エディット・ピアフの生涯」を作り上げ、以後越路の十八番として好評を博した。
★越路の歌唱は年々進化・深化していったが、その最大の功績者の一人はロングリサイタルの演出家であった浅利慶太と言って良いだろう。リサイタルには1966年(昭和41年)から劇団四季の演出家である浅利慶太が関わった。
★ロングリサイタルでは、越路が単独で歌い演ずる形式だけではなく「ドラマチックリサイタル」と称する意欲的な作品も制作された。これは越路吹雪と劇団四季とのタイアップで行われた。その最大のヒット作は1971年(昭和46年)初演の「愛の讃歌-エディット・ピアフの生涯」であり、越路が亡くなる前年の1979年(昭和54年)までロングリサイタルの一演目として再演された。内容は、ピアフを演ずる越路とギリシア古典劇のコロス様に扮した劇団四季の俳優陣とが相呼応しつつ、ピアフの名曲約20曲でピアフの生涯を劇的に描くものであった。
★浅利は、越路を「シャントゥーズ・レアリスト(真実を歌う歌手)」と評し、心の中の愛や悲しみ、祈りを見事に歌う歌手、感性の中にものすごいひらめきと知的な部分を持っている人であったと語っている。浅利自身はこう語っている。「ケイコしていてつくづく感じるのですが、越路さんという人は、実に「苦しむ人」なんです。愛の讃歌をケイコしていて、「あなたの燃える手で私を抱きしめて」と歌いますね。これを彼女はもう何千回も歌っているわけでしょう。ところが、当の彼女だけが、この歌に対して、歌うたびに白紙の状態なんです。ケイコ場で、ひとり自分の手を見つめたり、恋する人の手というものを想定しながら「あなたの燃える手で」「あなたの燃える手で」と繰り返している。これはどういうイメージなんだろうと苦しんでいる。
『愛の讃歌』にしても『サントワマミー』にしても、あれだけ歌いこんでいて、「むつかしい」「どうやって歌おうか」ということなんです。みていると痛々しい感じがする」。